インタビュー

 
 

水谷隼

木下グループ スポーツアンバサダー

現役時代から木下グループと契約を結び、引退後にはスポーツアンバサダーに就任した元プロ卓球選手・水谷隼。世界の頂点を見たからこそ、未来ある選手たちに“世界を目指すことの厳しさ”を伝えたいと語る。改めて振り返る木下グループと歩んできた道のり、そしてこれから先に目指すものとは──?

所属契約の決め手は“世界で1位を獲るため”

──木下グループとは2017年3月にプロの卓球選手として所属契約を結んでいましたが、きっかけは何だったのでしょうか?

 

2016年のリオデジャネイロオリンピックでの試合をたまたま観て、僕のことを「支援したい」と思ってくださったようです。リオオリンピックは、僕が日本の卓球界史上で初のシングルス銅メダルを獲得して、団体戦男子でも銀メダルを獲得したこともあって、それまでまったく注目されていなかった男子卓球がフィーチャーされた大会でもありました。
 
たくさんの方に「卓球は格闘技だ」と表現していただいたこともあり、木下グループも僕のプレーから何かを感じてくださったんじゃないかなと思います。

 

──男子卓球が注目されたことで契約の話もいくつかあったと思いますが、木下グループを選んだ決め手とは?

 

金銭的な部分での支援というお話は多くいただきましたが、木下グループとは卓球を続けるための環境づくりについてお話しすることができ、その環境を完璧に整えていただけると確信しました。リオオリンピックを終えて、東京オリンピックに向けての4年間を見据えたときに、環境づくりは一番大切なことだと思っていましたから……むしろ、卓球をやっていくうえで僕はずっと昔から環境を求め続けていたとも言えるんです。
 
中学からずっと海外で生活していたのも、日本には卓球を続けていくための環境が整っていなかったから、海外のリーグへ行かざるを得なかったことが理由でした。そして、日本に帰ってきている間はいつも大学の練習場をお借りしていて……お願いする立場だったので、好きなときに練習できるわけでもないですし、いつでも練習相手がいるという環境ではなく、日本に帰ってきても自分の居場所がないような印象でした。

 

──そういった思いもあって、契約の際に環境の整備を重視されたんですね。

 

そうですね。いまお話ししたようなことをお伝えしたら“チーム水谷”を作ってサポートしていきたいと提案してくださいました。のちにTリーグ(日本のセミプロ卓球リーグ)ができるということで、木下グループとしてTリーグにも参戦して、練習場を作って選手を集め、指導者も呼ぼうと。そんなに素晴らしい環境で卓球をやらせていただけるならぜひお願いしますということで、すぐに話がまとまった記憶があります。

 
 

──そうして選手として木下グループと契約を結び活動していくなかで、とくによかったと感じる点はどこでしたか?

 

すべてが完璧なんですよね。「もうちょっとこうなったらいいんだけどな」と感じることもなく、「こうしてほしいです」とお伝えするとすぐにその要望を取り入れてくださって。何か不満が生まれたとしても、それを伝えたらすぐに解消してもらえるような環境を整えてくださいました。

 

──例えばどのようなところが「完璧」と感じたのでしょうか?

 

練習場を作るにあたって、国際試合で使う赤いフロアマットや卓球台を用意してくださいました。卓球台って各メーカーによって球の弾みが全然違うんですよね。1台だけでもかなり費用がかかるので、大学や実業団も基本的にはひとつのメーカーと契約して取り入れているんですが、木下さんは「どの大会に出ても調整ができるように」と、国際大会で使用する6社くらいの卓球台を購入してくださいました。ボールも同様ですね。

本当に世界で1位を獲るための環境づくりをしてくださいましたし、その後もトレーニングルームやマッサージルームができたりと、アスリートがベストコンディションで練習や試合に臨めるように、より良くなるように環境を改善してくださいました。間違いなくいまの日本で一番質が高くて、環境が良い卓球練習場だと思います。

 

──完璧な環境づくりでバックアップされることで、メンタルの変化もあったのでは?

 

安心できましたね。それまでは非常に苦労しながら自分で練習場所や練習相手を探していたので、やっと落ち着いて練習できる環境が整ったなあと。そこまでしていただいたからには、結果を残せるかどうかは努力次第だと感じましたし、「この環境で強くなれなかったら、きっとどこへ行っても自分は強くなれないだろう」と思いました。

アスリートとして生きていくうえでの“厳しい部分”も伝えていきたい

──そうして臨んだ東京オリンピックでは混合ダブルスで金メダルを、男子団体で銅メダルを獲得。その直後に引退する意思を表明されました。

 

もともと「東京オリンピックで国際大会は引退しよう」というのはかなり前から決めていましたが、Tリーグの選手としてはプレーを続けたいという気持ちがあったので、木下グループにも東京オリンピックで完全に選手を引退することは伝えていませんでした。だから、発表したときに「木下グループとの契約も終わるのかな」と思っていたんです。

 
 

──伝えていなかったのはなぜでしょうか?

 

自分のなかでは引退を決めていましたが、オリンピックが終わってからまた感情が変わる選手ってたくさんいるんです。自分ももし「やっぱり選手を続けたい」と思った場合、先に伝えてしまうと言い出しづらくなってしまいますし(笑)、オリンピックが終わったときの正直な気持ちを伝えるのが一番いいのかなと思いまして……木下グループだけでなく、それ以外のスポンサーも含めて、オリンピック後の記者会見で初めて僕の意向をお伝えしました。

 

──その後、木下グループからは契約終了ではなくスポーツアンバサダー就任の打診があったのですね。

 

引退については「本当にお疲れさま!」とあたたかい声をかけていただいて、この先僕自身がどんな活動をしていきたいと思っているのかという部分を聞いてくださいました。現役は引退しますが、卓球イベントや卓球教室は今後も継続してやっていこうと決めていたことをお伝えして。
 
引退したとしても、元アスリートとして現役の選手に伝えられることはたくさんあると思っているということもお話ししていくうちに、「スポーツアンバサダーという形で携わるのはどうだろうか」という提案をいただいたので、お受けすることになりました。

 

──その際、木下グループからは活動の内容について、要望などはありましたか?

 

具体的な内容というよりも「スポーツ界全体を見てほしい」とお願いされました。それまでは卓球で結果を残すことがすべてでしたが、「スポーツアンバサダーとして、木下グループすべてのスポーツを見てほしい。機会があれば選手たちに講演したり、背中を押してあげられるような活動をしてほしい」という要望をいただきました。 実際に、スポーツアンバサダーの契約を結んでからすぐに京都にある「木下スケートアカデミー」で講演したり、サッカーの始球式に行ったりと幅広く活動を行っています。

 

──それらの活動を通して伝えていきたいことは?

 

僕は専門家ではないので、卓球以外のスポーツに関して技術的なことはわかりませんが、オリンピックの緊張感だったり、アスリートとして上を目指し強くなるためにはどうやったらいいかという心構えは誰よりもわかっていると思うので……とくにアスリートとして生きていくうえでの厳しい部分を伝えることが多いかもしれません。

自分自身、若い頃にたくさんの講演を聞いてとても勉強になりましたが、優しく伝えてくださる先生が多かったんです。でも、僕が見てきた世界のトップというのは本当に厳しい世界でしたし、勝者は1人しかいませんから。そういった厳しい部分を僕は伝えていかなければいけないと感じています。

ただ厳しいだけでなく、努力した先には明るい未来が待っているから、みんなもがんばって世界一になってほしい。僕の話を聞きに来てくださる子どもたちのなかには「世界一になりたい」という気持ちが強い選手が多いので、どうしたら実現できるかということを素直に伝えられたらいいなと思っています。

世界のトップ選手たちが集まるTリーグを盛り上げていきたい

──オリンピックで盛り上がった日本の卓球ですが、現状はどのように感じていますか?

 

オリンピックのときはもちろんすごく盛り上がり、それ以降も卓球人口は上昇し続けています。そういった意味ではオリンピック効果が大きかったと思いますが、Tリーグの観客動員数は減少しているんです。それはおそらく、卓球という競技ではなく特定の卓球選手にフォーカスが当たっていることが原因ではないかと思っています。

「この選手が出ているから試合を見てみよう」という人は多くても、競技自体が話題に上ることがなくなってきていることを考えると、Tリーグ全体をもっと盛り上げる必要があると感じています。日本のトップ選手=世界のトップ選手ですから、その世界のトップ選手たちが集まるTリーグが盛り上がっていないのは寂しいですよね。

 

──Tリーグを盛り上げるためにやれることとは?

 

木下グループのホームタウンの川崎でTリーグの試合が行われたときに、ゲストとしてファンの方たちと交流を深める機会をいただいたのですが、すごく盛り上がったんです。そういった活動をたくさん行っていけば必ず集客につながると思いますし、もっとメディアと密接な関係を築いて、Tリーグが行われた夜のニュースでも扱ってもらえるようなアピールをしていきたいと思っています。

 

──水谷さんご自身としては、今後どんなことをやっていきたいと思っていますか?

 

現在、コメンテーターや解説、情報番組やバラエティー番組のゲストとして幅広くテレビに出演させていただいていて、卓球のラケットを持たない仕事もかなり増えてきました。いただいた仕事は常にしっかりと準備して、最高のパフォーマンスが出せるよう日々努力しています。

水谷隼=卓球というイメージが世間のみなさんにはあると思うので、自分がテレビに出演することで卓球も盛り上げられるように。たまにはテレビで現役のときのような素晴らしいプレーを披露することができたら嬉しいですね。

それとは別に、先ほどもお話ししたように、オリンピックの金メダリストとして自分が経験したことを、これから先オリンピックを目指す選手や世界一を目指す選手たちに対して伝えていくことが自分の使命だと思っているので、スポーツアンバサダーとして今後も自分にしかできない活動をしていきたいと思います。

企画/株式会社iD 文/とみたまい

 
 
 
 

栗原ゆう

バーミンガム・ロイヤル・バレエ団 プリンシパル(Kinoshita Royal Ballet Pertnership 奨学生/2018年卒業)

英国ロイヤル・バレエスクールに通う日本人生徒を支援する当社の奨学金制度、「Kinoshita Royal Ballet Partnership」を活用し英国ロイヤル・バレエスクールに留学、2018年に同スクールをご卒業された栗原ゆうさん。同年にバーミンガム・ロイヤル・バレエ団へ入団され、2025年の来日公演「眠れる森の美女」では主演のオーロラ姫を演じ、カーテンコールでプリンシパルへの昇格が発表されました。世界を舞台に輝き続ける栗原さんに、ロイヤル・バレエスクール時代のお話から、現在、そしてプリンシパルとなった心境や今後についてお伺いしました。

短期ワークショップから、「夢の架け橋」を渡るまで

──英国ロイヤル・バレエスクールへ行かれたきっかけを教えてください。

 

当時お世話になっていた先生から、ロイヤル・バレエスクールが日本で行う短期ワークショップ「ジャパン・インテンシブ・コース」への参加を勧めていただいたことがきっかけです。イギリスのバレエに初めて触れて、新たな挑戦ができることにとてもワクワクしたことを覚えています。そのワークショップで講師から「ロイヤル・バレエスクールに来て1〜2週間レッスンを受けてみてはどうか」とご提案いただき、ロンドンへ赴きました。現地でレッスンを受けた後、ありがたいことに「入学してみたら?」と言っていただいたんです。もちろん留学のためにはオーディションで合格するか、コンクールで結果を出す必要があり、YAGP(ユース・アメリカ・グランプリ)に出場することを決めました。そこでシニア部門で1位を受賞、スカラシップを獲得しました。さらに、木下グループ様にもご支援いただけることが決まり、ロイヤル・バレエスクールへの留学が実現しました。子供の頃から海外のバレエ団への憧れがあり、中でもロイヤル・バレエ団でプリンシパルとしてご活躍されていた吉田都さんはまさに私が夢を描くきっかけになった人でした。そんな吉田さんも通われたロイヤル・バレエスクールで学べることは、大変光栄なことでした。


ロイヤル・バレエスクール時代の栗原さん

──入学して、印象的だったことはありますか?

 

指導方法の違いです。日本では、先生が一人ひとりに対して細かく指導してくださる方が多いですが、スクールでは、生徒全体に向けた指導が基本でした。そのため、先生の言葉を落とし込むために体としっかり向き合うことが必要でした。それぞれ体のつくりが違いますし、役柄や表現も異なるので難しいこともありましたが、自身への理解がとても深まった時間になりました。

また、Upper Schoolの1年生から通う予定でしたが、怪我で1年間休学して2年生(15歳)から入学しました。1年生と2年生の授業を1年間で修了するため、集中して毎日を過ごし、無事3年生へ進学が決まりました。怪我はマイナスに捉えられがちですが、だからこそ得られたものもあったと思っています。

同級生の中にはLower Schoolの7歳から通っている子もいて、後から入っていくことに少し緊張もありました。ですが、私の学年は編入してきた生徒も多く、自然とお互いを理解しようという空気がありましたね。文化の違いを尊重し合い、困っている子がいれば声をかけたり、アドバイスし合ったり。3年生になると大変なことも増えますが、そういう時こそ助け合って乗り越えたなと思います。今でもみんな、世界中で頑張っていて、それぞれの場所からお互いを見守っているような、そんな大切な存在です。
 

──ロイヤル・バレエスクールとロイヤル・オペラハウスは隣接しており、建物をつなぐ橋がありますよね。なかなか渡ることのできない「夢の懸け橋」とも呼ばれているそうですが……?

 

最終学年のPre Professional Yearになると、実技で選ばれた生徒に、実際にロイヤル・バレエ団の公演に出演する機会が与えられるんです。ありがたいことに、私もその舞台に立たせていただき、「夢の懸け橋」を渡ることができました。初めてその舞台に立ったときは、本当に信じられない気持ちでいっぱいでした。憧れていたロイヤル・バレエ団のプリンシパルと袖で待機したり、横を歩いたり。夢のようで、興奮で胸がいっぱいになったことを今でも覚えています。世界中に素晴らしいバレエスクールはたくさんありますが、現役のトップダンサーと同じ舞台に立つチャンスを与えてもらえるという点で、ロイヤル・バレエスクールは本当に特別で、卓越した価値があると思います。
 

──当社の奨学金制度、「Kinoshita Royal Ballet Partnership」を受けて、キャリアや将来にどんな影響がありましたか?

 

本当にこの支援がなかったら今の自分はいませんし、感謝の気持ちでいっぱいです。お手紙もイギリスから何度も出させていただいて、「日本にちゃんと届いているといいな!」と思っていました。あの頃は毎日目まぐるしい日々を送っていましたが、当時のことを振り返ると、あの時起きたこと、できたこと、全て木下グループ様の支援のおかげだったと改めて気づきました。海外へ行くことは様々な理由で難しい場合もあります。このような奨学金制度があることは、確実に未来のダンサーが一歩踏み出すきっかけや後押しになっていると思います。本当にありがとうございます。

何気ない毎日が育む、唯一無二の表現

──普段の1日のスケジュールを教えてください

 

大体は、午前中にバレエのクラスがあり、その後リハーサルが1~2個入ることが多いです。クラスとリハーサルの間で時間が空くときは、ジムやピラティスに行ったり、自宅に帰ってゆっくりしたりしています。自分を高めるために時間をどう使うか、セルフマネジメント力も身についてきました。

また、オフの日はあえてバレエから離れる時間をつくるようにしています。絵を描いたり、ピアノを弾いたり。また、人との対話を通して、さまざまな考えや価値観に触れ、人間性を磨くことも大切だと感じています。

特に絵は、日によってまったく違う作品が生まれますし、「今日はこう感じているんだな」と、自分の心のあり方がそのまま表れているのがわかります。感情の揺らぎに気づけたのも、余白の時間があったからこそ。舞台袖で待機しているときの自分の感情が、毎日ほんの少しずつ違っていることに、自然と気づくようになりました。そうした繊細な変化を感じ取り、受けとめ、表現に繋げることが、“栗原ゆう”が演じる唯一無二の役になっていくと感じています。
 

バレエと向き合う自分の姿が、誰かの夢の一歩になれたら

──プリンシパルとなった栗原さんに憧れる方がたくさんいると思います。今後、目指していることや目標はありますか?

 

今後も変わらず、自分を追求し続けたいと思っています。自分が精一杯バレエと向き合うからこそ、その姿勢を見ていただけるのではないかと思っていますし、その姿を見て誰かの夢の一歩となったり憧れを抱いてくださったりするのであれば、こんなにも嬉しいことはありません。

プリンシパルになったからといって踊りへの向き合い方が変わるわけではなく、自分の中にある”ピュアさ”を忘れず、吸い取り紙のように素直でいることによって、色んなことをずっと吸収したいです。自分がどこまで成長できるかを、いつも楽しみにしていたいです。

また、自分なりに「プリンシパルとは何だろう?」と考えたのですが、自分ひとりで成り立つ役割ではなく、まわりの方がいてくれるからこそ、初めて成立する存在だということです。だからこそ、ひとりで精一杯になるのではなく、周囲にも目を向けられる人でいられるように、心に余白を作っておきたいです。そのためにも、先程申し上げたバレエから離れる時間は、とても大事にしています。

──未来のダンサーへメッセージはありますか?

 

「踊ることが楽しい」という気持ちを忘れないでほしいです。きらびやかな世界の裏側に、大変なこと、痛いこと、乗り越えなければならない壁がいくつもあると思うんです。そんな時こそ、「それでも“なぜ”あなたは舞台に立つのか」と原点を思い出してほしいです。表現できる幸せな気持ちを、どんな時でも持ち続けてほしいなと思います。
 

左:木下グループ本社にて  中央・右:イギリスの大人気キャラクター、「パディントン」と一緒に  
左:リハーサルにて  中央:趣味の絵  右:舞台裏のオフショット  
 
 

中尾太亮

英国ロイヤル・バレエ団 ソリスト(Kinoshita Royal Ballet Pertnership 奨学生/2018年卒業)

英国ロイヤル・バレエスクールに通う日本人生徒を支援する当社の奨学金制度「Kinoshita Royal Ballet Partnership」を活用した中尾太亮さん。2014年から2016年の3年間はドイツのマンハイム国立音楽舞台芸術大学で舞台芸術を専攻し、2017年に英国ロイヤル・バレエスクールの最終学年に編入。2018年に同スクールを卒業後、ロイヤル・バレエ団へ入団し、現在はソリストとして、世界を舞台に活躍を続けています。ロイヤル・バレエスクールでの学生生活や、現在の活動、そして今後の目標について伺いました。

プロになる覚悟が芽生えた瞬間

──英国ロイヤル・バレエスクールに進学されたきっかけを教えてください。

 

2017年、17歳のときにローザンヌ国際バレエコンクールで3位に入賞したことがきっかけです。2014年からドイツのマンハイム国立音楽舞台芸術大学で舞踏芸術を学んでいて、在学中にローザンヌに参加しました。入賞したことでロイヤル・バレエスクールのスカラシップと共に最終学年への編入のお声がけをいただき、さらに木下グループからご支援をいただけることになり、渡英が現実のものとなりました。それまでプロになるという意識はまだ薄かったのですが、ロイヤル・バレエスクールの進級条件の一つとして「プロになれる見込みがあるかどうか」が判断基準になると伺い、そこで初めてプロのバレエダンサーになるという意識が強く芽生え、今までとは違う緊張感を覚えました。

──学生生活の中で、印象に残っていることはありますか?


まず入学して周囲のレベルの高さに圧倒されました。ドイツでの3年間は自分なりに努力を重ね、ローザンヌで入賞してロイヤル・バレエスクールに編入するという道を歩んできましたので、多少の自信を持って入学しましたが、世界中から集まった生徒たちの技術や表現力に触れ、自分にはまだ伸びしろがあることを痛感しました。バレエには「型」がありますが、ドイツで学んだワガノワ・メソッドとは異なり、ロイヤル・バレエスクールではプロのバレエダンサーとしてのキャリアを歩むための、独自のトレーニングシステムに基づいたカリキュラムが組まれています。このシステムは英国バレエの伝統に根差したもので、高い身体能力だけでなく、舞台で通用する洗練された表現力を極限まで高めることを重視している点が特徴です。手の動かし方や顔の余韻の残し方にも独自の様式があり、気品に満ちた丁寧な動きが求められます。ドイツで学んだ技法とは異なる美学があり、1年間という限られた時間の中で、その違いを理解し、周囲に追いつこうと日々練習に励みました。

それから特に印象に残っていることは、在学中にロイヤル・バレエ団の公演、『眠れる森の美女』で、準主役である青い鳥のパ・ド・ドゥとして出演したことです。最終学年では、オーディションで選ばれた生徒にロイヤル・バレエ団の公演に出演する機会が与えられます。役柄は作品ごとに選考が行われ、舞台に立ち始めた頃はロープを縛るだけの役、ただ立っているだけの役、さらにはバレエシューズすら履かずスニーカーで走り回るような役もありました。それでも踊る機会を得るためなら何でもやるという気持ちで挑み、同時にスクールのメソッドを習得するために毎日必死に取り組んだことでその姿勢を認めていただき、準主役である青い鳥の役を任せていただけたことは最も記憶に残る思い出の1つです。なんと当時、青い鳥のパートナーであるフロリナ王女役を務めたのが栗原ゆうちゃんでした。そして2025年に日本で開催した「NHKバレエの饗宴」にて、同じ作品に出演させていただく機会があり、今度は僕が王子役、ゆうちゃんがオーロラ姫役を務めたんです。スクール時代に同じ舞台で共に準主役として立ち、そして日本の舞台で再び2人で主役を演じられることは、感慨深く幸せな瞬間でした。


──編入を機にプロのダンサーを意識されたとのことですが、その分プレッシャーも大きかったのではないでしょうか。


常に“やるしかない”という空気がありました。卒業公演には世界中のバレエ団の芸術監督が来場し、スカウトの場にもなります。だからこそ、舞台では“選ばれるのを待つ”のではなく、“自分を選ばせる”という意識で臨んでいました。本来パフォーマンスはお客様に喜んでいただくためのものですが、審査が並行する場では気持ちの入り方が違いました。ドイツからイギリスに渡ってすぐ、将来を考え始めた時期でもあり、漠然とした未来に身一つで挑むために、強気で臨むことで自分を奮い立たせていたと思います。振り返れば、気持ちを高められたのは、すでにスクールで研鑽を積んでいた同学年の優秀な仲間たちの存在があったからです。最初は圧倒されることもありましたが、なんとか食らいつこうと向き合っていましたし、寮に戻れば同じ釜の飯を食べる仲間。互いに刺激し合う“戦友”のような存在でした。

──木下グループの奨学金制度があったことで、将来にどのような影響がありましたか?


ローザンヌ国際バレエコンクールのスカラシップではロイヤル・バレエスクールの学費をすべてまかなうことは難しく、進学にはさらなる支援が必要でした。もし木下グループの奨学金制度がなかったら、ロイヤル・バレエスクールに進学することも、プロの道に進むことも叶わなかったと思います。本当に感謝しています。この制度の存在を、今の親御さんや子どもたちにもぜひ知っていただきたいです。広く知られるようになれば、バレエの発展にもつながると思いますし、経済的な理由で夢を諦めてしまうことが少しでも減ればいいなと、心から願っています。私も日本では子ども向けにワークショップを開いていますが、簡単に「頑張れば誰でもプロになれるよ」とは言えません。でも、挑戦する権利は誰にでもあると思っています。まっすぐなビジョンを持ち続けるためにも、この制度が夢を諦めないきっかけとなってほしいです。

夢を見据えた正しい努力を

──1日のスケジュールを教えてください。


午前中はだいたいレッスンがあり、日によってリハーサルが1~2個入ることもあります。バレエダンサーにはよくあることだと思うのですが、レッスンからリハーサルまで時間が空くことが多いので、ジムやピラティスでの自分磨きに充てて、集中が途切れないように努めますが、気持ちを整えることもプロとして重要なことだと感じています。オフの日はリラックスしつつも、結局ずっとバレエのことを考えていますね。バレエは最早、自分の体の一部なので、気づいたら足を伸ばしていたり、ストレッチしていたり、今度踊るプログラムの音楽を鼻歌で口ずさんでいたり……。そんな中でも心身ともに休むために、旅行したり、友達と飲みに行ったりして楽しんでいます。毎年シーズンが終わった後は実家の愛媛に帰省していて、同じロイヤル・バレエ団に所属している日本人の先輩も一緒に帰省し、釣りに行くのが毎年夏の楽しみな行事です。


──今、ソリストとして中尾さんが特に磨きたいと思っていることは何ですか?


今、自分が特に磨きたいと思っているのは、踊りに爆発力を加えて、記憶に残るダンサーになることです。自分は初めてのことでも割と器用にこなすところが長所でもあり、その反面、“器用貧乏”だなと感じることもあります。例えば、技術的に難しい踊りであっても、自分ではとても苦労して習得したのに、周りからは「簡単そうに踊るね」「全然疲れてないでしょ」と言われることがあって。そういう時に、大変そうに見えないことは損しているなと感じることがあります(笑)

やはり、お客さんの目を引くのは、ダイナミックで感情が伝わってくるような踊りだと思っていますし、そうした踊りは、その人のこれまでの背景や努力を想像させるとも思います。ないものねだりだと自覚はあります。自分の踊りは「綺麗で無駄が無い」と言っていただけることが多く、それもありがたいことなのですが、今はそこから更にもう一歩ステップアップし、お客様の心を動かすダンサーになれるよう、試行錯誤を重ねているところです。

──海外でバレエを学びたい人に向けてメッセージをお願いします。


海外でも国内でも、目標に向かうための努力の方法が大事だと思っています。頑張るのは大切なことですが、そのやり方が、自分のビジョンに向かっているのかを意識してきました。「努力は裏切らない」とよく言われますが、僕は“正しい努力をした人にのみ結果が与えられる”と思っていて、自分の現在地と目標がちゃんと線で結ばれていることが重要だと感じます。指示を受けてやるだけの練習が、自分の意思を持って取り組むことにより自発性が生まれ、「今、何を考えているのか?」「なぜその動きをするのか?」「この練習にはどのような意味があるか?」とそれが行動の理由となり原動力になります。自分の意志で踊り、表現できることは何よりも自由で楽しい。とことん自分に問いかけて、唯一の表現者になれるように、僕も頑張ります。